はじめて見る本格的な人形劇。でも途中まで人形劇であることを忘れていた。というか、いわゆる人形劇の枠をはるかにこえていて、人形と人間の関係劇を見ているようだった。

 ああそうだ、アートって呪術でもあったと思って見ているうちに、本物の「地霊」とか「精霊」をこの目で観てしまったような気さえする。
 まず穴ぼこだらけの白い布団が天上から吊るされている。会場が暗くなると、開け放しの窓の外から遠い六本木の喧噪とともにただの夜がやってくる。その夜が、この催しの「幕」なのだ。
 以下は見ながら、ひとりでに自分の中で紡がれてしまったストーリー。
 穴だらけの毛布は、実は生き物の卵を生み出す白い闇夜で、月の騒々しい干渉でいつの間にかぶつぶつと呪縛を解かれて、お餅みたいなちっちゃいクッションをぶらんぶらん振り回しながら命を吹き込んでいく。それが細胞のように組み合されて、編み込まれて、筒状の闇がお互い呼び交す夜、というような新たな夜の情景へと変化して行く。どこからどう登場したのか思い出せないけれど、闇の杯で出来た馬が仲間を呼び息絶えると、はじめて顔を持つ人形が立ち上がってきて、歌をうたってふざけ始める。そのときはじめて、目の前で布を操っているパフォーマーが人形遣いだったことに思い至る。なんだろう、これって、人形遣が、どうやってものに命を吹き込むのか、その儀式を目にしているのかもしれないと思う。でも、それと同時に、そのすべてが演出であり、人形遣は人形遣の役を演じてもいると気づいて驚く。

 日常とは切り離して、アートとして見ているわけだけど、自分の日常にふっとリンクする瞬間があって、それは、今回は、「穴だらけの毛布」を上から吊るしている紐が、パフォーマーたちによって切られたり外されたりする過程で、上から、わーっとたくさんのものが雨霰と降ってくるシーンだった。それらは、ビー玉とかあめ玉のような奇麗な光るものなのだが、演者がびっくりして身をすくませる、というシーン。そのシーンは、「今 ここ」の瞬間に与えられる贈り物について言い表しているという感じがして、はっとした。私も、そのとき、いっぱい与えられて、身をすくませている、という気分になったものだった。今を生きるって難しい。けれど、確かにそれが一番大事だと思う。私の場合、批判的な言説に巻き込まれているとそれが出来ない。

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