五月の末くらいだったか夫がラジオで朝日ジャーナルが復刊してそのことを大竹まことが喋っていてとてもオモシロそうだよと教えてくれた。
一冊まるごと刺激的な、雑誌というには密度の濃い、読み飛ばしできない中味。
内容は、今の日本はどうなのというものだが、単純に面白いのは、浅田彰×宇野常寛×東浩紀の対談の中で繰り広げられる静かな大げんか。特に、東浩紀は、浅田彰に対してなんという口のきき方をするのだろうとハラハラドキドキ。それに、批評が生き残らないと困ると思っているくせに、政治の「流れに抵抗する」ことも放棄、浅田や宇野といった別の世代の批評家が立っている前提も否定、自分のようにリアリティーを持っている者のみが生き残るのだと、あくまで傲慢な感じ。行き詰まっている場所で戯れるしかないのが批評なのだろうか。
それと辻元清美×中森明夫×秋元康の新人類対談。「あの時ぼくらは若かった」という懐古と言い訳と反省と感謝。 秋元康、マーケティングなんかヒットとはなんの関係もないと言い切る。「森の中でみんな出口がわからなくてうろうろして、「こっちが出口らしいよ」っていう流行に乗って、出口の方に行こうとするんですよ。だけど、みんなが行かない方に自信を持って一人が歩き始めると、絶対その後をついていくんだよね。実はそれくらい自信満々じゃないとダメなんです。」こういうこと言うのが、新人類じゃないかなと思う。
見田宗介、柄谷行人、鶴見俊介、斉藤貴男、雨宮処凛、山森亮を読んでいると、やっぱり、鶴見俊介の言う「日露戦争以来の大国主義を見直せ」という考え方が、説得力を持って浮き上がってくる感じがする(それを軸にして、他の人たちのものを読むと、自然とつながってくるのではないか)。日露戦争以来の、というのは、本当は、日清戦争以来の……なんじゃないかと思う。
日本が近代国家として成長した代償は「いのち」だったと、小松裕の『日本の歴史十四 「いのち」と帝国日本』では言われている。
日清戦争以来、「近代国家権力の本質ともいうべき「いのちをめぐる政治」」が出現する。「それをひとことで表現するならば、「いのち」の序列化である。人びとのいのちに序列をつけ、一方は優遇し一方は抹殺するという政策を実施し、それを人びとに当然のこととして受容させていく政策のことである。」
もちろん、今は戦時中じゃないないけど、まるで、戦争が起こる直前のような不穏な空気を感じ取っている人もいるんじゃないだろうか。それはおおもとで「いのち」が保証されない不安感からくるのではないか。「いのち」を支える政治をしてほしいと思う。

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